おそらく、学生に自立を求めない大学は存在しない。
大学が備えるべき基本的な要件について定めた「大学設置基準」の第四十二条において、平成23年より「学生が卒業後自らの資質を向上させ、社会的及び職業的自立を図るために必要な能力」の必要性が明文化されたように、少子高齢化が進行し経済の先行きが見えない不安定な現代社会において、その傾向は強まりを見せている。
では、自立とは一体何であろうか。大辞林によれば、「他の助けや支配なしに自分一人の力だけで物事を行うこと」と定義される。「助けや支配なしに」という対極的な表現が肝であろう。「助け」がなくても生きていける「力」が求められ、その結果「支配」を拒否する「自由」が生まれる。強い意志をもって力を身につけ自由を勝ち得た状態こそを、自立と呼ぶのだ。
翻って自らの大学生活を思い返してみると、初めての一人暮らしで一番困ったのは自炊であった。
米の炊き方がわからず、アパートの隣室の先輩に恥を忍んで教えてもらった。
目玉焼きを作るのに、鍋のふたをかぶせて表面を蒸し焼きにする方法を知らず、何度焼いても裏面が黒焦げで表面は生のまま、調理器具の不具合を本気で疑った。
キャベツとベーコンを炒める以外の料理が思いつかず、キャベツ→レトルトカレー→即席ラーメンの∞ループという食生活を送っていたら体調に異常をきたし、医者に「それは自炊ではない」と断罪された。
アルバイトの給料日、一念発起して牛肉のステーキを焼こうと、フライパンから火がボワッとなるイメージでワインビネガーを投入したが、当然ボワッとはならず、最終的によくわからない酸っぱい味の焼肉が完成した。
枚挙にいとまがないが、この頃は実家の手料理のありがたみを痛感していた。大切なものは失って初めて気づく。
しかし、かのように不器用な私でも、やがて野菜の多様な切り方を修得し、調味のコツをつかみ、卵の過熱のコントロールをおぼえ、レシピが少しずつ増えていった。現在では家庭内で朝食と休日の夕食当番を任されている。
そんな私が最近固執しているメニューがある。「なめろう」という。
私は本学で情報デザインを教える森部准教授を「男料理の師」と勝手に仰いでおり、日頃からTwitterでのつぶやきに注目している。最近のタイムラインの中で「なめろう旨い」「なめろう最高」などと、この料理名が頻出するのだ(ちなみに、昨年は「アクアパッツァ」が気になってレシピをモノにした)。
米すら炊けなかったあの日の私ではない。確かな調理法を確立し、自ら情報を得るスキルも身につけた。早速インターネットで「なめろう」を検索する。
調理手順を調べてみると、いきなり「活きのいい鯵を準備。うろこを落として三枚におろし~」とある。無理だ、魚屋さんじゃあるまいし。さすが師が絶賛する料理、私ごときが習得しようなど何たる思い上がり???
森部先生とは、本学の学生支援について審議する会議のメンバーとして席を同じくしている。私の提議する内容に少しでも論理の綻びがあれば、的確に批判の矢が飛んでくる油断のならない先生である。
したがって、会議前の時間は提議内容の確認に余念がない私であるが、「なめろう」にたどり着けず絶望していたこの日、軽い気持ちで尋ねてみた。
「先生、なめろう作る時って鯵を一匹さばいてはるんですか?」
「まあさばくこともありますけど、新鮮な物であれば刺身やむき身でも十分ですよね」
なんと、魚さばけなくても作れるのか。そしてどうやら「むき身」という魚の販売形態が存在するらしい。
気を取り直して後日スーパーの鮮魚コーナーを物色してみると、ありました「青島獲れ 鯵のむき身」230円也。刺身用と書いてあるので、三枚におろして刺身にする前のブロックの状態を指すのであろう。今年1月に青島漁港を取材したこともあり、親近感もある。初なめろうの素材はこれでいこう。
帰宅し、キッチンに立ちレシピの続きを確認する。「大葉、ネギ、みょうが、しょうが等の薬味をお好みで入れて、味噌を適量入れてひたすら包丁でたたく」 なんとざっくりしたレシピか。とにかくやってみるしかない。突如キッチンに響き渡る「ダダダダダダダダ」という打撃音。妻子が何事かと心配するが意に介さず。
わずか数分で完成。
早速食べてみると、これが想像を絶するほどに旨い。まずそのまま食べて旨い。ご飯に乗せて食べるともう止まらない。〆にだし茶漬けにするとこれまた絶品。なめろうの三段活用である。
かのようにしてなめろうの調理法を心得た私は、以降数日間にわたりなめろうを作り続け、妻から「そんなにまな板で魚叩くなら専用のまな板買って」と命じられ、なめろう専用のまな板を準備するに至った。何回食べても飽きのこない素晴らしい料理である。夏バテで食欲のない方は、是非お試しあれ。BGMは夏の定番曲であるフジファブリック「陽炎」で。
以上、毎度のようにとりとめのない学務課コバヤシがお送りしました。